「育毛を通じてもっと自分を好きになる」をモットーに続けている育毛読書。
先日の海読書に「ただしい人から、たのしい人へ(著:小林正観)」を持っていき、読み終えましたので、まとめてみました。
本書では「正しい」ことにとらわれずに「楽しい」ことを基準に生きることで、人生がより豊かになるという考え方を伝えています。
悩みや苦しみは「正しさ」への固執から生まれるとし、「楽しい」ことを優先することで、自分自身も周りの人も幸せにできると説いています。
私にとって本書は、人生後半戦を生きるにあたり、大変勉強になった一冊となりました。
海読書(自転車さんぽ)に持っていった一冊なので、その日に楽しんだ景色(写真)とともに、印象に残った視点をお届けします。
「楽しい」に内包されている感情

自分にとってもっとも居心地がいい心をつくり上げる。これを一言で言うと、「自分にとって楽しいと思える人格をつくること」です。
この文章を読んだ時、私の長年の悩みというかモヤモヤが消えていくような感覚を覚えました。
というのも、私は「楽しい」という感情がいまいちわからない人間なのです。
みんなが「楽しいね!」と言っていても、何が楽しいのかサッパリわからない・・・。
空気を乱さぬよう「うん!楽しいね!」と言ったりしますが、どこか空々しい・・・。
「楽しい」という感覚がわからない私は、どこか欠落しているのだろうか・・・と、いつも心のどこかでモヤモヤしていたし、傷ついてもいました。
しかし!!
「楽しい」という言葉の中に「居心地がいい」という言葉が内包されているとするならば、だいぶ見える景色も変わってきます。
・朝起きてボーッとしてる時間
・ルーティンのストレッチをしてる時間
・散歩中に頭空っぽにしてボーッとしてる時間
・満員電車の中、吊り革に捕まりながら車窓をボンヤリ見てる時間
・部屋で読書をしている時間
・自転車で景色を愛でる時間
・風呂でボーッとしてる時間
・ソルフェジオ周波数を聴いてる時間
・就寝前にボーッとしてる時間
え?待って!溢れちゃう!
楽しいが溢れちゃう!
なんてことない無個性で地味な毎日ではあるけれど、私の時間には「楽しい」がこんなにも溢れていることに気がつくことができました。
(ボーッとしてる時間が多め笑)
私を含めた(たぶん)多くの方が「楽しい」という言葉の表層的なイメージにとらわれがちですが、「楽しい」を「居心地がいい」という言葉に置き換えることで、より本質的な、自分にとっての心地よさや安心感といった感情に気づくことができるのだと学ぶことができました。
そしてこの「楽しい=居心地がいい」は、自分の内面だけの話ではなく、人間関係においても同じことが言えます。
著者は「楽しいと思える自分を作ることは、人格者になること」と説いています。
「私」が人格者になるということは、誰に何をいわれても、目の前にどんな現象や出来事が起きても、それについて怒らない、腹を立てない、怒鳴らない、イライラしない、声を荒らげない、ということにほかなりません。
つまり人格者というのは、関わる人にとって「気持ちの良い人になること」であり、「喜ばれる(安心できる)人」ということになります。
私は人格者になれているでしょうか?
悪趣味に生きていないか?

「楽しい=居心地がいい」という捉え方も私にとっては衝撃的だったのですが、著者の「趣味」の捉え方、これも私の悩みを軽減してくれました。
目の前に存在する現象、自分の身に降りかかってくる現象について、それを否定的にとらえることも趣味であり、肯定的にとらえることも趣味、感謝の心でとらえることも趣味でしかない、ということです。
目の前に存在する現象をどう捉えるかは趣味の世界・・・。
趣味という言葉が気になりましたので語源を調べてみたところ、もともとは「味」という言葉のニュアンスを指していて、その後「味」という言葉が、物事の味わいや趣味嗜好といった意味に拡張されていったそう。
そして興味深かったのが、17世紀以降になると、「感覚や感情(好み)」といった意味で広く使われることになった。と書かれています。
著者の説く「目の前に起きている現象の捉え方も趣味の世界」という主張にも頷けます。
現に趣味を英語にすると「hobby」ではなく「taste」と書くらしいです。
現在の趣味というと「hobby」に全振りしている印象が強くあり「私には趣味がない」なんて悩みをよく見聞きしますが、そうじゃないんですね。「taste」だったんです。
目の前にある現象(味)をどう捉えるか。
不平不満なネガティブな味と捉えるか。
それとも、自分にも他人にも気持ちよく接して感謝の気持ちをもった味と捉えるか。
どちらが良い趣味でしょう?
比べるまでもありませんよね?
目の前の出来事をどう捉えるかという「taste」こそが趣味なのだ。という考え方は、人生後半戦を生きるにあたり、肩の力を抜いて生きる大きなヒントになりそうです。
悪趣味に生きないようにしたいものです。
つまり著者の言う「人格者になる」ということ。
それは、どんな現象にも心乱されぬように生きる。ということ。
著者は、これを「究極の損得感情」と言っていました。
この言葉も胸に沁みるものがありましたね。
自らに由(よ)るということ

日々生きていると、どう避けたところでイヤなことってありますよね。
しかし著者は、「目の前の現象はゼロで色はついていない」と述べています。
その「味」をどう捉えるか、というのは個人の自由なわけです。
著者は自由について、以下のように述べています。
自由とは「自らに由(よ)る」と書きます。
自分のとらえ方、認識力によって目の前の現象が変わるのです。
「自由」と聞くと、仕事を辞めてFIREして悠々自適な生活♪を連想しますが、それを夢想したところで「ぜってぇ無理だよな〜」と白けている自分に気づくことってありますよね。
しかし、自由とは「自らに由(よ)る」と捉えると、これまただいぶ見える景色が変わるものです。
つまり「自らが由(よ)し」とすること。
自分の人生においての納得できるポイントをどこに置くか、ということになりますよね。
現実的な納得感。
その納得感を支える価値観。
自らを由とするラインをどこに引くか。
そう。自由というのも自分次第。
幸せは「なるもの」では「感じるもの」。
と、よく言われますが、自由においても全く同じことが言えそうです。
そして大切なのが、その自由は自分や関わる人において「居心地がいいか」ということでもありそうです。
自由とは、FIREのような経済的な自由だけが自由ではない。
という視点は、私や多くの人が抱えているであろう漠然とした閉塞感を打ち破る力がありますよね。
自分の人生においての納得できるポイントをどこに置きますか?
つまり「正しく」より「楽しく」生きるとは?

最近の風潮として、「正しさ」への過度な執着は、同調圧力や固定観念を生み、自由な発想や行動を制限し、自己批判を招くため、息苦しい。
そんな印象をどうしても持ってしまいがち。
ではなぜこんなにも「正しさ」は息苦しいのか?
それは「居心地がよくない」から。
つまり、楽しくないわけです。
では楽しいとは何なのか?
それは自分にとっても関わる人たちにもとっても「居心地のいい人間」であること。
「居心地のいい人間」であるために、目の前に起こる現象を、どんな味(趣味)として捉えるべきか。
そして、「楽しい人格者」になることによって、結果的には自分がラクに生きていくことができる「究極の損得感情」である。
ならば「正しさ」よりも「楽しい」ほうが、一度きりの人生お得に生きられるよね。
ということを本書から学びました。
本書での学びは、人生後半戦を生きるにあたり、大変勉強になりました。
そして著者はこのように結びました。
「正しさ」を求めることで怒りや憎しみを感じるような人生を送ってきたのであれば、もう一歩進んで、新しい世界に足を踏み出してはどうかと思います。
「正しい生き方」から「楽しい生き方」へ。
「正しい人」から「楽しい人」へ、なのです。
なんとなく人生後半戦(メンタル部門)の大事な指針が掴めたような良書でした。
小林正観さん、素敵な教えをありがとうございました!